四国遍路の四万十川的な文化・歴史考察・その2
2006年 05月 21日
■お遍路さんへのやさしさ・・・
◆「お接待とはhospitality」の・・・なぜ?
昔の老人は「お遍路さん」に限りなくやさしかった!何故なら「誰もがいずれ行う修行」だったからである!つまり・・・
「お遍路さん」とは「お大師さん」でありかつ「明日の我が身」だったのである!「明日にやさしく・・・」=「Z軸の思考」である!
(四万十太郎)
**************************
(先週のブログ紙面) <5月14日ー20日>
■四万十通信(ほぼ週刊・不定期)
◇論壇:四万十川新聞
■四万十川百人一首(週刊・火曜日配信)
◇柚季(高知県)
◇都市の夜(谷岡亜紀氏)
■バーチャル[こうち自然村](ほぼ週刊・不定期)
◇『それは新荘川からはじまった・・・』第8回配本
◇森づくりプロジェクト
■四万十川の文化人・小谷貞広(週刊・木曜日配信)
◇ふるさと(火振り漁)
■土佐の森・救援隊(ほぼ週刊・不定期)
◇活動の記録 (平成17年度)その7
◇こうち森林救援隊(新入隊員からの報告・その2)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
[四万十川の愛唱歌](「四万十川新聞・俺の話を訊け!」より)
■岬めぐり
岬めぐりの バスは走る
窓に広がる 青い海よ
悲しみ深く 胸に沈めたら
この旅終えて 街に帰ろう
【番外霊場、眞念庵のすぐ先は、足摺岬(金剛福寺)である。】
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
[おまけ] <「分家版・四万十川通信」より>
■行き倒れの遍路達
遍路の途中で、はからずも、あの世への「同行二人」の旅立ちをしたお遍路さんは数多くいたと思われます。
四万十川新聞【日曜版】(18.5.14号)に掲載されていた『土佐清水市市野瀬にある番外霊場、眞念庵』には、そのような行き倒れのお遍路さんのものと思われる、藩政時代の古いお墓が散見されます。地元の、限りなくやさしかった昔の老人達が、手厚く葬ったに違いありません。しかし、近世の、そのような、お墓が、見あたらないところを見ると、近世の行き倒れお遍路さんの末期は、どのようなことになっているのだろうと、疑問が沸いてきます。
また、同新聞の(読者の広場)に、たびたび登場している「卒寿を越えて、益々お元気な元校長先生」から、次のようなメールをいただきました。これに関連した情報をお持ちの方は、是非とも、メールで、お知らせ下さい。
(四万十次郎)
*************************
【元校長先生からのメール】 (読者の広場)
◆四国巡礼に関する疑問。
知人から、次のようなメールをいただきました。行き倒れお遍路さんの行路病者の出来事は、多いと思われますが、各県の警察署とか、どこかの機関が取り扱っているのでしょうか?このメールの大正14年の事件の個人的な事の解決は無理でしょうが、之に似たようなお遍路さんの死亡事故などを取り扱っているところは何処でしょうか。ご存知の方は、教えてください。(元校長先生・メール)
『今日は村上先生に、お聞きしたい事があってメールさせて頂きました。実は先月の彼岸の中日に10年ぶりに祖父母の墓参へ広島へ出かけて参りました。
そこで墓碑に刻まれた文字や、過去帳等を改めて見せて貰い、ご先祖様のひとりが重篤な病を抱え、四国巡礼に出かけたものの、とうとう帰って来なかったということがわかりました。
いつ亡くなったのか、何処で亡くなったのか、正確な情報は得られておらず、勿論遺骨も墓に納められていないようです。大正14年9月23日が命日となっているようですが、秋の彼岸の中日(秋分の日)と重なりますので、これは後に遺族が決めたものではないかと推察しております。
当時のお遍路さんの状況と巡礼先で死亡した場合の、地元民の対応の方法を知りたいと調べてみました。一番札所の寺に友人を通じて質問したり、四国4県の県立図書館にはメールで問い合わせてみましたが、納得のいく返答並びに蔵書は見当たりませんでした。
もし村上先生が大正時代のお遍路さんにお詳しければ、是非教えて頂ければ幸いです。』
○o。..。o○○o。..。o○○o。..。o○○o。..。o○○o。..。o
写真集=『ブログフォーカス(四万十川通信)』
壁新聞=『県庁ぷらっとこうち版・四万十川新聞』
○o。..。o○○o。..。o○○o。..。o○○o。..。o○○o。..。o
by tarou100s
| 2006-05-21 06:23
| 18年5月